自分を愛する

人生の中では、春のような穏やかな時期もあれば、冬のように厳しい時期もある。

冬の時期が何年も続いたとき、それでも自分の内側を変えれば外側の現実も変わるはずだと、信じてただひたすら、内側を整えることに集中して過ごしてきた。

まずは「自分を愛する」ということが大切だと信じていたので、やりたくないことを我慢してやるということを少しずつ減らしたり、心を満たす時間を増やすことに注力していた。

そして、心(魂)の声に耳を傾けて、なんとなく直感でやりたいと感じたことは自分にやらせてあげるようにした。

すると、急に静かな冬の時期が終わり、暴風の吹き荒れる混乱の時期がやってきた。混乱期においては、さすがに自分の内側を整えることは困難を極めた。怒りや悲しみが出てきたときは、それを抑えず感じきって、そのあとはまた、少しでも心を平穏に戻していく。自分の心を満たすこと、自分を愛することを少しでもできる範囲で実践していく。私はしつこく、それを繰り返していった。

今、混乱期を抜けて、少しづつ春の時期に入ってきている。冬の時期や混乱の時期を経て、私は内側の自分との信頼関係が強固になっていることにきづいた。

何度心が折れそうになっても、自分だけはずっと私のそばに寄り添ってくれて、いつでも味方でいてくれた。そんな自分が愛おしく思えて、涙が出てきたこともあった。

わが子を愛おしいと感じるこの感覚が、自分に対しても溢れでてくる世界があったなんて、私は知らなかった。

闇だとばかり思っていた時期が、私にくれたギフト。

このギフトのおかげで、私はこの先、何が起こったとしても、自分がついていてくれる安心感、絶対に自分の味方でいてあげるという信念とともに歩んでいける。

自分を信じ愛するということは、人生や世界を信じ愛するということ。

 

 

最大の役割は「自分」を生きること

娘が数か月前から、私のことを「おかあさん」と呼ぶようになった。

「ママ」より「おかあさん」の方が大人になった気がするからだそうだ。

それなのに、今日ふと気づくと、未だに私は自分のことを「ママ」と呼んでいる。しかも、娘がいないところで一人ごとを言うときでさえ、「ママ」と呼んでいるではないか

最近、母親としての役割に対して、役不足というか、罪悪感のようなものをなかなか手放せなかった私。

これを機に、「ママ」でも「おかあさん」でもなく、私は自分のことは「私」と呼ぶことにした。

母親としての役割の呪いをかけていたのは、私自身だったのかもしれない。私はこの世界にたった一人なのに、「私」と呼んであげられるのは私だけなのに。

母親であることは変わりないけれど、その前に「私」ありきなのだ。

世界が私に役割を与えたのだとしたら、それは「自分」を生きることだと思う。

 

「決める」と、流れが変わるらしい

幼少期から周りに合わせるのが得意だった私。

長所でもあるけれど、周囲の人々の目や社会の常識を気にしているうちに、自分の本当の心がみえなくなっていた。心ではなく、頭の中でごちゃごちゃ言っている声に従って生きていたのだ。

昨年の夏、そんな生き方を180度変えることを決めて、旅先のお寺で、「私はこれからは心、魂の声をきいて生きていきます」と宣言した。

そしたら、今年に入ってから、カオスがやってきた。その嵐のような一連の出来事のおかげで、心では望んでいたけれど無理だとずっと諦めていた方向へと進んでいくことになる。

まずは「決める」とエネルギーが変わると聞いたことはあったけれど、私の宇宙では、どうやらそれは本当だったらしい。

まずは「決める」ことから全てが始まる。

私はそう信じて生きている。

 

風の水面下には凪がある

風により循環が生まれることで、詰まりや滞りがなくなり、

心は静まり凪が生まれる。

 

恐れを手放し変化することで、安定がもたらされる。